昭和44年7月18日   朝の御理解
 【入力者: 末永 満】

御理解第21節


 信心なければ世界は闇になると。現在、世界は闇になりというこの言葉が実感をもって感じられる世の中だと思います。いよいよ信心のある者が光を点じていくことに、に努め精進しなければならい時だと、思います。

 「信心せよ。信心とは和賀心が神に向こうのを信心とおなじこと」。お互いこうして毎日朝の御祈念をさせてもろうたり、又、お参りをして神様へ向こうとるわけでございますけれども。ここで神様、神に向こうという信心とは、・・・火が灯らなければ、ね。

 火が灯る程しの、灯っておる程しのおかげを頂いとらなければ、神に向こうておるとじゃないということになるわけですね。拝んでおること、成る程心が和賀心が神に向こうのをと。信心とは和賀心が神に向こうのを信心というのじゃと。心が神に向こうたらどういうことになるか。

 身体、この御体が向いとるだけじゃいかん。心が向いとらなければならん、ね。心が向いておらなければならん。ですから、身体は神様に向かっておるけれども心は向いてはいない、ね。

 いわば、眠り半分で御祈念をしておるということは身体は向いておるけれども心は向いていない証拠なんですよ。ところが人間さのようなもっておりますから、ね。ある意味合いではまんねりになってくることもあるし、又は、身体が疲れてもう身体が神様に向かっておるだけで何をいいよるのやら、何を願いよるのなら分らんぐらいに(笑)、なっておるようなことがなかろうかと。

  これではここでいう和賀心が神に向こうておるのをと仰る、心が神に向こうていない証拠なんです。どんなに身体疲れておっても、和賀心が一度神に向こうたらあそにピリッ、とそれものが感じられてくるね。それは感じられるはずです。心が向かうから神様がこっちに向いて下さるです。

 こっち向いて下さるから交流がが始まらないはずがない。ですから、ただあの、和賀心が神に向かうのを信心というのじゃと仰ることはただお参りの方向が向いておる、教会の方へ自分の身体が向いておる。

 自分の身体が神様の方へ向かっておるから神に向こうておるとはいえないということですよね。だけれども、そこは人間でありますからね、疲れもありゃ眠いもある、ね。けれども、そこんところは何とか一工夫しなければならない。ね。

 この頃若先生やら末永さんあたりの信心、あの朝の御祈念にみえとるとも眠っておる方が多いごたる。(?)。だからこれから寝とってですね、ほんとにこうなんていうですか、はー、ほんとにあのきついかろう眠かろうと思いますねやはり。

 けれども、心は向いてないのです。ですから、あの人達も何とか工夫しなければいけない。だからそれがあのだからそういう和賀心が神にむかうための修行にはなっておるですね。神にむかうための修行になっておるからコラッと、というわけにはいかんのですわね。

 又、ほんとにきつくなろう、眠たくもあろうとこれ思います。ですから、なら自身達もやはりそこんところの願いがなからにゃいけない。はー、最近はどうもたろんどるぞ。最近はもう、その証拠に食べたり飲んだりおもしろいはなししておる時には、ボチボチやっとるですけんね。

 ただ御神前に向かった時だけが眠してこたえんとですから、これはやっぱちっとおかしいとですよ、ね。いわゆるその、まんねり原因ですし、同時に心がだろんでおると悟らして頂かにゃならんと思うんです、ね。

 ですけれども、そういう例えば、和賀心が神に向かうための一生懸命の修行の姿とは見えます。神様ももうほんとにまぁいずらしいぐらいに思いなさろうけれども、まぁ、神様が心を向けて下さるわけにはいかん。心神にむかっていない、ね。

 カンテラに油いっぱいあっても芯がなければ火は灯らんのです。火が灯らなければ神様へ向かっておる芯とはいえないということです、ね。お互いの日常の生活の上においてもそうです。

 言葉に「金光様、金光様」唱えておっても、ただ唱えておることです。そのことはやはり信心させて頂いておるということを自分に自覚しようとしておる。自分が金光様の信者であるということを自覚しようとしておるその精進努力はです、やっぱり修行とする神様が認めて下さるだろうけれども、そこに火は点じていないとするならその、「金光様、金光様」は(からめんぶつ)的なものであることに気付かせてもろうて、そこに火が灯るような私は信心にならにゃいけないと。ね。

 人間ですからね、やっぱりきつい時はきつい、眠い時は眠い。やはり我情我欲でいっぱいで口には金光様唱えながら、心と、おー、言葉というものが全然裏腹になっておるようなこともありましょうけれどもです、ね、そこんところを何とか一つ工夫していかなければなりません、ね。

 神徳の中におっても氏子に芯なければおかげはなしと仰る。神徳の中にあっても分っておる、理屈の中では。けれども、有り難いというものも湧いてこないならやはりそこに何とか工夫なければならない。

 先日からお話しをいたしましたね、二、三日前にあの、えー、京都に大学に行っておってあちらで両親や養子に行って子供できて円満にいっておったんですけれども、ある事情のために離別といったような形でこちらへ帰って来たわけ、一年間あまり。

 そして自分はその家内、子供にまた会いたい一念がですね、もう思い、思いを募ってノイローゼのようになって、ご飯はいけん晩は眠れない、いよいよ顔は蒼白になって、もうそれこそ上着寝る、親の目というものはもうほんとに、もうほんとにあのちょっと姿見えんとほんとに自殺もしたっちゃなかじゃろうかJと思うぐらいに傷悴しておるわけ、ね。

 その時にお導きを頂いて親子が参ったきた。親は一生懸命すがる、子供は私が神様話どん聞いちから私が助かるはずがなかと、心に思うとるもんだから、いっぺん参ってきたけども、参ってこない。

 まぁ、それから何か一、二ヶ月ぐらい参ってきよったでしょう、お母さんが。そして、ある時にはその大変な親子喧嘩をした。それもその京都の方からもうそれは度々来るそのあちらからの手紙がその何ですかね。

 別れるための裁判をしなけばならん。その書類をできてその、その判を押して、判を押してくれるとか判を押せと、ね。とにかく子供のよい(?)、まいしゃりょう。もうとにかくそれを月々どれだけ送り、年々ならどれだけを送りてよったようなそのもうそれこそ、(?)(?)もないごたる手紙が参りますもんですからそれをもってはもう親としてはもうほんとに(?)さっぱり別れて判を押して送ってやったらよかろうというような(?)。

 けれども、何回、二回でしたけれども判は押さずそのままほっといて(?)であった。そういう中にあの、親子喧嘩をして、今はとにかく、まぁ、京都へとにかく子供に人目に会うためにだからお父さんも一緒に行くはずなっとったのはけれども、(?)(?)京都までいってやれで、やれないという、いいえ来てもらわんでもよいということになった。

 そのことを、まぁいうなら、泣きの涙でお届けに参りましたから、行く前にいっぺんだけ私がねあのいうときたいことがある。ただ行っただけじゃ行くまいがと、おかげ(?)いかんのだから。

 又は、(ようむそれじゃ心も大人)なかろうかと、というて、おりまたから京都へまいります前日親子で参りました時に、あの時申しましたその( 「どうひょうににん」 )ということを頂いた。それで昨日それからその後にあちらが京都へたつのと向こうから手紙が来たのとが(すれがえ)になった。

 その手紙に初めてその子供がお父さんを訪ねるというその手紙である。むこうではもうそれこそ夢のようにもびっくりしておるわけですね、行ったもんですから。手紙着く、まだ着いたらいかん、出したばかりのご両親が来たもんですからむこうのお母さんもその子供達もう、もう子供達がもうごろんごろんお、あの、(?)(?)喜んだっち。

 で、それを皆そのお母さんでも家内でもですね、そこに心がて(きはずがないし)、まぁ、二日でしたでしょうか、ゆっくりして、又、正月頃はかえ、向かいに来てくれてといったようなことで、もうそれこそ、まぁ、大変なおかげを頂いて帰って来て、もう一年ぶり初めて子供が笑いましたち、昨日いうてから(笑)、二人で出て参りました。

 もう(?)人間の心が安らかになったらどうしてごげんあの安らかな顔になるじゃろうかちいうてです、ちょうど高橋さんが一緒でしたから私下がったところでした。だから参りをしてから、まぁ、高橋さんと私とその親子四人でいろいろ話したことでした。

 あんたがの、あんたの笑顔というものは初めて見る。いいえもう一年ぶりこの人が初めて京都から帰って来る時にも初めてにこにことして帰ってまいりましたと。もうそしてその話しをろいろにしておりましたらですね、ああいうようなとても人間の考えではどうにも解決にもつきそうにもないような問題がです、このような有難いことになってくるということに、もう親先生はあなたの御信心のおかげでちゅうてから、子供が一生懸命それこそ涙ながさんばかりにしてから、喜んで、だからこれかが大事バイ。これからが本当のおかげを頂くための、これから今まではあんた泣きの涙もお参りじゃったけん、ね。

 これからは一つお礼の参りができ、(お許しできにゃいかん)。どげん考えたっちゃ薄いって。誰でもそのそげなんふうでその子供を送ったもんのさーとその夫婦のものの心配というものがですね、京都から帰って来るとは帰って来るじゃろうかと、ね。

 途中でもうその、いわゆる、最悪な場合を考えるわけですね。むこうではもうけんもほろびに例えばいわれて、もうあの人がだいたい無口なから、ものも言いきらんですごすご帰って、そして鳥栖の方には帰ってききらんのじゃろうかという心配じゃったんです。

 それが、まぁ、にこにことして帰って来たもんですからもう有り難くてですね。もうそれこそあり、有り難い涙に(?)時のお礼参拝でした。これ何か私は思うのですけれどもね、和賀心が神に向こうたんです、ね。

 もうここで、いわゆる、行く前に(?)参ってきた時に私が、ね、あんたが子供が可愛いって。もうそれこそノイローゼなるほどに子供にしてもらいたい。もう人目に会うたら死んでもよかぐらい思うとるとですよ、ね。

 人目に会いたい。一年間別れておるその子供に人目会いたいとこういうて、そのいうておるわけです、ね。のように、家内に子供であるようにです、あんたのお父さんでもお母さんでも同じことだと私。

 それにそのもう親でもない子でもないって、親がこっちまでいうようなことでどうしておかげが受けられるか。金光様の御信者そげなんこっちゃおかげが受けられんて。あんたが子供に、を可愛いようにあんたのお父さんもあんたが可愛いからこそいや憎いこともいうんだと。

 帰ってたらお父さんにお詫びをしなさい。言葉ではいわんでもよいけん心でお詫びなさいって私は、ね。その頃にはお父さんの方の気持ちもちろんから、お前一人なんじゃから(?)、けれども、先生が(どうようににん)というあのことを頂いて帰っとるから、今度はもう起きても何でもよかというんではなくて、とにかく私が一人で行くけんでというて、参ったわけなんです、ね。

 ここでその(どうようににん)、ね。今度はね、あんた一人じゃないという自覚をもたせるためにあんたにここに来てももらったんです。そこでなら親子の情というものがね、あんたのお父さんとあんたの子供とのところから一つそこに基づいて、あんたのお父さんがあんたのことを思うてござることを一つ分っていかにゃいけん。

 まぁ、もうその時に何ていうですかね、和賀心が神に向こうたんですね。生き生きとした心で、はー、そうじゃった思ったんです、ね。いわゆる、親に詫びる心ができたんです。そして、神様(?)いうて下さる、(どうようににん)神様があんたについて行って下さる。

 誰がついていかんでも、神様がついて行って下さると、御神米を自分のふところの中にこう、押し頂くようにして頂いてです、神様と一緒だから、神様と一緒だからという気持ちで京都に行ったんです、ね。

 そして、それこそただ今申しますように、ね、親子の者がもうそれこそ、手に、もうとにかく行ってから帰るまで子供がその(?)着いてですね、はずれんそうですもん。で、そのことをまぁ、帰ってからお母さんに話したらしいです、ね。

 本人は中々むこう行って話しません、ただニコニコしておるわけですけれども、お母さんが(ちくい)そのことを話すわけですね。そうくせそげやんのがほんなことだと。そして、えー、いつは帰って来てくる。いや、いつは向かいに来てくれというそういう話までできて、今度帰って来るというようなおかげになった。

 いわゆる、そこに心が神に向こうたら火が灯ったわけです、ね。私が今日いうようにお互いが、なら御体を、生身をもっておるからです、ね、さー、朝参りは遅れんでごと参ろうと思たっちゃ、遅れたい。

 さー、身体は神様の方へ向かっちょるけれども、心は、いわば、眠ってしもっとったり、ね、そういうことではならここでは、神に向こうておるということはいえない。心を神に向こうのを信心というじゃというのじゃから。

 身体が向いておるのを、教会の方へ自分身体が向いておることが信心じゃないんだと。心が神に向こうておるのを信心というのじゃと。特に、神様がこちらを向いて下さる。そこには交流始まるならはずがない。

 どんなにきつかっても、眠かっても本当いうたら、ね、御祈念が済んだらパチッと目が覚めておるところを見ると、まだ自分の信心の、いわば、まんねりひみところをです、一つ気付かせてもらって、何とか工夫をして自分の心は神様へ向かう一つおかげを頂かなければいけない、ね。

 だからそこんところがね、だらだらとなって、しかもその段々だらだらとなっていくだけで、段々神様から遠のいていくような人も沢山あるんです。ですから、ほんとに和賀心が神に向かうということは大変大事なことです、ね。

 というて今申します、眠りながらでも神様に向こう時は、それは神様へ向かうことにはなっていなくてもですね、修行にはなるだろう、とね。あー、もう今日眠いとるけん参るまいというとるよりも、眠る時で裏ひっくりがえてみたこというよりもです、お広前にも出てきておるし、形はやっと神様に向かっておる、そして、眠り倒れるようにそこに、眠い、きついというて、その姿をです、神雅が修行として受けて下さろうけれども、それを神に向こうた。

 いわゆる、ここにあるあの、油が例えばこのお広前にいっぱいあっても、それではおかげは受けられんと。おかげの徳というものがいっぱいあってもそれではおかげは受けられない。その心に、いわば、点じられた火というものが赤々と燃えるおかげを頂くためにはです、どうでも和賀心が神に向かう工夫というものが何とかここに、えーと、なされなければならないということです、ね。

 昨日、子供村うちから毎日参ってきます。高校に今年から入学いたしました子供がおります。あれ、子供なりにいろんな悩みがあるわけです。そのことのお届けをいたしますから、私がね、もう丸君、僕があの高校へ入学する時にもういよいよ僕はできじゃったと、思うたろうがって。

 さら、力の落とすことやら神様におすがりせろといった、その晩に(?)。あれが(?)しなかったんです。どうことじゃと、どういうことだったかとにかくあの、まぁ、(ほけつ)といったようなもんでもない、できちょったごたるふうばってんどうか間違とったわけです。
 
 だから他の者はここでお参りしておる全部できたばってん、自分だけできんやったけんもう非常にがっかりしとったんです。だから夕方になってできたことが分った。もうその時の喜びというのは大変なことであった。

 もう逃げいてからできとったつよりはうれしかった。もうできんじゃったと思うとるもんじゃけん。だから僕そこに、その時の言葉思い出したら、今の悩みいっぺんに消えるちいうてから、もうほんなこてもうそれを瞬間思うたらしいですね。

 それこそ昨日の(?)じゃないけれどもですね、もう初めてあんたがニコニコした顔見たちうごたるふうにですね、もうここで表情が変わるです、ね。私はほんとにあの、心がねそういうふうして神様に向こうた時には、その生き生きしてくるんです。

 どんなに身体が疲れておっても眠かってもです、御神前に額ずいたらです、心が生き生きしてくるんです。それが和賀心が神に向かうのであります。だから眠り半分のですね、御道の信奉者が何万、何億あったっちゃだから実をいうたら、何、世界が闇なると仰る、世界を照らすようなことになってこないて、ね。

 ただ教会に毎日日参し寄ります、毎日拝みよりますというだけでは行けない。自分の心は神様へビリーッとこうその生き生きとね、和賀心が神に向こうたという信心じゃなかなければならない、ね。和賀心が神に向こうておる時には、初めて分らせて頂くのが、我が身は神徳の中にあるということですね。

 神徳の中におっても、氏子に芯なければおかげはなし。(?)どのようにおかげの受けらる信心の徳というものがあってもです、氏子に芯なければおかげはなしであります、ね。
ですから、そこに何とか工夫しなければならん。何とか、例えば今日、今朝なら今朝の御理解を頂いて何とか自分の心を神に向けれる手立てというものをなさなければいけない、ね。

 そこには自分の心に光が点じられておるか、ここにあるじゃない、ね。カンテラに油いっぱいあっても、いうなら、このお広前にいっぱいに油はあっても芯がなければ火は灯らん。芯ということは心。その心がならどういう心かというと、神に向かうその芯がなかなければ火は灯らん。

 だからこれは日常家庭生活の上においても、なら口に「金光様、金光様」と唱えよるから自分の心は神様の方へ向かっておるんだという考え方は間違いない。いわんよりもいいだろう、ね。(?)、眠りながらでも御祈念をせて頂いておればです、修行として受けて下さろうけれども、それでは火は灯らんのであり、和賀心は神に向こうておるということにならんのだということ。

 だからそういういうなら、切ないまでに神様を思いよるのですから、もう一歩何とかそこに工夫なさなければいけないということです、ね。昨日京都から帰ってまりましたその親子のように、昨日ここでその、あの時のことを思い出せと、ね。

 あの時に嬉しかったことを思い出せって。あの時にああいうおかげを頂いておったから現在そげん悩みができとるじゃけん、ね。そこにです、私は和賀心がホット神様へ向くわけなんです。そこにはもう火が点じておる。もうそれは悩みはがなかった。

 子供たっちゃそうなんだと。信心の薄い、例えばならまだここに二回、昨日(?)三回。で、その息子さんは、でもやはり芯が、芯に火が灯ればです、神様へ向こうておることになっておる証拠にはどうにも人間の知恵や考えではできないような事柄がそこに有り難いずくめでおかげになっておるということ、ね。

 だから、もちろん火のことですから消えやすいのです。ちょっと何か風が吹いてくるとぷつっと消えるというところにですね、私共がいつもおかげを受けねばならない。今日は私はね、御神前に出らせて頂きましたらあの、御神水がこうお供えしてあるんですよ。

 その御神水の上に少しほこりがね、こう浮いてるんです。で、何かこう蚊か何かのようなものがちょっと一つ浮いてるんです。いかに御神水でもこれじゃったらいけんでしょうが、ね。いかに、信心しよります、御神水、御信心だというてもです、もうそれに少しもうほこりが浮いておったり、そこに蚊が一つ落ちこんでおったり、しておったんじゃもうこれは御神水の値打ちはないのですよ。

 お互いが御信心を頂いておりますというても、その御信心が眠り半分の信心であったら、もう信心の値打ちは全然ないです、ね。しかし、御神水には間違いはないです。御信心には間違いはない。だからその御信心の修行にはなってもだ私はいう、ね。

 あー、もうきつして応えんばってん、要約お参りだけは毎日しよる。だからその、それはけっして心神に向こうておるからじゃないと。心が神に向こうたらもうそこに火が点じなければならない。おそうならんですむ、ねむうはない、きつくはない。心に芯が神様に向こうたら。火が点じるって必ず、ね。

 そこんところのですね、を私共がその、何とか工夫をしなければならない、ね。御神水といやほんとに今、井戸からくみ上げたという、ほんとにコリのように冷たいお水、それであって私は本当の信心の値打ちがある、御神水の値打ちがあるとこう思うのです、ね。

 お互いね、水にそのものには間違いがなくても、ほこりが浮いておるような信心ではこれは私を含めてではかろうかともう反省させて頂いておりましたら頂くことがこの二十一節でした、今日は、ね。

 今まではあの、和賀心が神に向こうのを信心というじゃと。合楽の方へ一歩でも足を向けたら、もうそれは信心だというふうに説きましたですね。けれども、成る程その神に向かう信心の修行ではあるけれども、神に向こうたのじゃないということを今日は説きた、説いたわけですね。

 だから神に向こうたらです、いうなら、神朝の方が向こうて下さるということです。だからそこには必ず火が点じると、いうことをいわれるね。鳥栖のその人のお話と、昨日あのここで私はお取次ぎをさせてもらった高校生のお話の例をとってお話を聞いてもらったわけです、ね。

 お互いの心がどうでしょうか、ね。ほこりが浮いておるようなお水ではなかろうか。これは新しい、今、くみ上げたばかりの冷たいお水のような信心、ね。しんせんな生き生きとした信心。それは和賀心が神に向かえば、そういうしんせんさというものが頂けてくるのでございます。

 教祖様もね、おかげを受けたと時のことを忘れねばとこう仰っておられます。ですから、それを忘れんで、例えば昨日の鳥栖のその方やら、昨日の高校生のお取次ぎさせて頂いたそれのようにですね、これから大事よ、そのことを忘れんでいきゃこれからは喜びの信心ができる。

 ところが、実をいうたらそれから難しいのである。それからが和賀心が神にむかうところの手立てというか、工夫というか。そのための精進がなさなければ、信心にはなれないというこを申しましたですね。どうぞ。